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今の家は比較的街に近くて、この上もなく閑静だ。私の書斎の下は音無川で、一方は水田であり、自分の家の物音以外は殆ど音というものがない。その上、温泉もあるというから、非常にぬるい温泉だと仲介者も差配も家主も念には念を入れてダメを押したのを承知の上で越してきた。
と、その稍落ちつきのない女らしい黒瞳くろめがちな眼を道平に向けた。
「さあ、くはしいことは判りませんね」
「小倉組の連中が来たちふぢやないかね。ほんとうかね」
彼は自転車[#「自転車」は底本では「自転者」]にのつた。走り出した。風が頬をかすめた。房一の紅黒い、生真面目な、醜い、厚ぽつたい顔が目の前にのこつていた。
「はあ、いや。もう手前どもは老いぼれ同然ですからな」
それは盛子だつた。きりつとした割烹着の姿は彼女の伸びやかな身体の特長をよく現はしていた。
銅山が廃坑となり、時代が移ると共に、他所の町村が発展するのに河原町だけは産業的に衰微し、とりのこされたが、以前の天領気分は今でもなほこの町を中心とする一廓に残つていた。それは近くの村々から「河原風」と呼ばれていた。今でこそ「無暗と気位ばかり高くて能なし」の意味であつたが、当の河原町の人々は、それがどんな意味に使はれていても、腹の中では漠然とした自己尊敬の念を感ずるのであつた。
練吉の額は今青いと云ふより磁器のやうな冴えた白さに変つていた。目瞬きはぴつたりととまり、線を引いたやうな切れ目が深く長く、宛あたかも部厚い眼鏡そのものに入つたヒビ割れのやうに見えた。そして、
「先生!」
「いや、まあ。――後の分もありますよつて、黙つて預つといて下さい」
鍵屋の隠居神原直造は老来なほ矍鑠と云つた様子だつた。
男はまだ立つて、あの話を持ちかける構へといつた風を持していた。