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練吉は顔をしかめ、手を振つた。
と、房一はひとり言を云つた。
「その姿は見えないのですが……。」
「それは惜しかつたですな。私などとちがつて学資の心配はなかつたでせうし」
やゝあつて徳次が訊いた。
「あの人はつまりこんな風な人なんだわ。こんな風に――」
小谷は房一に話しかけた。
犬が何を見つけたのか、その時さつと身を躍らして傍の草地にとびこんだ。二三度そこらをぐるぐると廻ると、鼻の先に真新しい土をくつつけてまた房一の傍にもどつて来た。
練吉は意外なことを耳にしたといふやうにちよつと房一を眺めたが、熱心に聞いていた。
「それぢや、向ふの座敷へ行つて少し休みませうか」
「あの山に田地を注ぎこんで裸になつたのは三人、わしも知つとる」
私が寐る前に入浴するのはいつも人々の寝しずまった真夜中であった。その時刻にはもう誰も来ない。ごうごうと鳴り響く溪の音ばかりが耳について、おきまりの恐怖が変に私を落着かせないのである。もっとも恐怖とはいうものの、私はそれを文字通りに感じていたのではない。文字通りの気持から言えば、身体に一種の抵抗リフラクシオンを感じるのであった。だから夜更けて湯へゆくことはその抵抗だけのエネルギーを余分に持って行かなければならないといつも考えていた。またそう考えることは定まらない不安定な、埓らちのない恐怖にある限界を与えることになるのであった。しかしそうやって毎夜おそく湯へ下りてゆくのがたび重なるとともに、私は自分の恐怖があるきまった形を持っているのに気がつくようになった。それを言って見ればこうである。
すると、何てこつた、下手の渡船場の対岸にひよつこり房一の姿が現れた。河原に出ようとするらしく、自転車を厄介さうにわきに抱へて、崖縁についた急な小路をのろのろと危つかしい恰好で降りて来る。やつと判つた。今の今まで、徳次はそこに渡船場があるといふことを度忘れしていたのだつた。