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房一はその一見粗雑な性情にかゝはらず、現実の直視力のごときものを持つていた。彼を導いてその運命をつくらせたのもその力だつたが、今自分が他の誰のでもない彼自身の足の上にしつかりと立つている自信を持つたときに、ふりかへつて自分がそこから出て来た場所、老父の道平やその身の上に降りて来た運命のまゝに依然として百姓仕事に甘んじている兄弟達のことを考へた。単に好人物といふより他はないその手の皺の間に土の浸みこんだ日焼けのした兄弟達は、誰から云ひ聞かされたわけでもないのに自分に与へられた運命の限度を知つて日々を落ちついて暮しているあの楽天的な人達であつた。彼等は今房一の成功を恐らく当人以上に悦んでいた。彼等にとつては房一はその唯一の代表者であつた。誰でも世間的な野心は持つているものである。そのないやうに見える人達にあつても、それは眠らされて見えがたくなつているか又は何らかの形に変形されているものである。そして、この世間的な野心といふものも、実は生の根源力にほかならない。彼等のあきらめていたもの、若しくは自然にあきらめたと同じ結果になつたこの野心を房一の中に見た。それは房一のものでもあるが、同時に彼等のものだつた。今彼等は彼等自身の全部の希望をこめて、懸命に控目に房一を支持しようとしていた。その単純な幸福さうな輝きが房一の心を捕へた。
「もう、だいぶようなつたですわ」
庄谷はほんのしるしだけにちよつと頭を動かしたが、やつと相手が誰だか思ひ出したらしく、その細い眼が急に徴笑した。
練吉は一人で感心し、それでも足りないと見えて、房一に呼びかけた。
小谷は疳高い声で云つた。
と、小谷は人差指と中指を二本突き出して見せて、
「何しろ、わや苦茶だ」
上下のシャツだけといふ奇妙な恰好で房一が台所に降りかけた時、はじめて彼はそこに誰か立つているのに気づいた。
第四章
「へえ。――ズブツとね」
「梨地から水神淵へ降りる路ができたからね、そこへ出れば、帰りはずつと楽だ」
練吉は小面倒なことが大嫌ひだつた。それに、正雄の父親として世話を見てやるなどは不似合だと自分でも思つていた。が、そんな風に彼自らだらしないと自認していたにもかゝはらず、練吉にはやはり良家の子弟らしい身だしなみのよさと一種の潔癖さが現れていた。そして、この点にかけては、彼も茂子に対する正文夫婦の見方に同意していた。